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出題の傾向
建物事例の中で、「住宅・集合住宅」からの出題は一級建築士でも二級建築士でも必ずでます。特に集合住宅に関しては、高層になればなるほど一級建築士試験での出題となります。
覚えにくい項目ではありますが、みんなが取れるところは取らないと、計画は危なっかしいので、過去問は抑えるようにしましょう♪
覚えておく要点
戦争が終わってぇ~♪ 僕等は生れた~。戦争を知らずにぃ~♪僕等は育った~♪って言う歌がありましたね。覚えやすいメロディだから覚えています。
そもそも戦争って何年に終わったんだったけ?って調べてみたら1945年8月15日に戦争終結していたんですね。そこからは高度経済成長期を迎えることになって、住宅も不足していたものだからどんどん建物が建っていくようになり、色んな住宅建築物がその時代に活躍していました。
「ひばりが丘団地」(1959年)
解体せずに再生活用する技術的手法を検証するため、ストック再生のための実験が行われていました。→なので現在も一応現存
そして、これはあくまでも都市伝説なのですが…。
このひばりが丘団地は、団地の中で市がふたつ存在しているんです。なんか不自然ではなんですよねぇ~。
本試験の出題では、恐らく東久留米市でのみで出題されているのですが、実際に西東京都市と東久留米市のふたつにまたがっています。
通常だと、道路とかで市の区切りとかがあるんですが…。
それは…。
戦争の時に日本軍の軍事施設が、多大な空爆を受けたのですが、その場所と言うのが…。
そうっ!「ひばりが丘団地」と言われていて、今でも不発弾がたくさん埋まってて、市がお互いに「誰が不発弾の処理するねんっ!」ってことで、解体をするのも怖いのでこの団地は、「ストック再生」のための実証試験ということになったのでは?
…っと思わず思ってしまいました。
ほんとっ、近くに住んでいる人ごめんなさいっ!
インパクトがあった方が、覚えやすいようにこの話しを書かせてもらいました。
あっ、書くのん忘れたっ!
信じるか信じないかはあなた次第(笑)。
…お約束の言葉ですね(笑)。
「草加松原団地」(1962年)
東洋最大規模のマンモス団地とも呼ばれ、高度経済成長期に建設された5926戸の郊外型大規模住宅団地。4階建ての中層住宅が中心なんだけど、景観にアクセントをつけるためにポイントハウスやテラスハウスを混在している。→現在は解体され平成17年からURによる建て替えが行われています。
ちなみにこの5926戸の中の1戸に、元TOKIOメンバーの山口達也さんも住んでいたそうです。
「そうかぁ~、山口くんかぁ~。」
「草加ぁ~、山口くんかぁ~。」
語呂合わせでも何でもないですが、こうやって覚えてみてはいかがです(笑)?
「晴海高層アパート」(1958年)(晴海団地15号館)
都市型高層集合住宅の原型。6住戸を1単位としているスキップアクセス形式。前川國男氏の設計なのですが、同時期のユニテ・ダビタシオンを強く意識している事はわかるんだけど、屋上庭園は諦めちゃったみたい。きっと大人の事情でもあったのかな…。そうそう、ここは公団としては初のエレベーター採用の建物でもあります。今みたいに「〇〇棟」ではなく「〇〇館」っと呼んでいたところも時代を感じますね→現在は解体し建て替え
↑はるみちゃん(晴海ちゃん)のスキップ(スキップフロア)と覚えてみたらいかが?
「広島市基町団地」(1972年)
戦争が終わって30年が経とうかとしている時に建築されました(高層高密度団地)。なぜ30年経ってからだと言うと、原爆による応急住宅地の木造住宅の老朽化のための再開発が目的だったからです。大高正人氏の設計なのですが、こちらも「晴海高層アパート」と同様、ユニテ・ダビタシオンの影響を受けています。1階部分がピロティになっていたり、4戸を1ユニットのスキップフロアになっていたり…そして、こちらは「屋上」を使っていますっ。子供の遊び場や共用広場、集会場などで現在は「基町農園」として活性化も図っているそうです。→戦後より少し後に建築されただけあって、今も現役です。
…って、ことは…「晴海高層アパート」と「広島市基町団地」と「ユニテ・ダビタシオン」は基本似ている!と覚えると覚えやすいですね。
「東京都営高輪アパート」(1947年)
空襲でダメージの大きかった東京都都心部だけあって、すぐに計画をしたんでしょうね。戦後初の本格的なRC造の公営集合住宅でこの後すぐに流行ってくる「公営住宅標準設計51C型」ではなく、食寝分離が出来ない2K型が採用されています。→現在は解体し建て替え
参考:「公営住宅標準設計51C型」(1951年)
離しているものは「寝るとこと食べるとこ」と「親と子の就寝空間」、一緒にしているところは「台所と食事室(DK)」の原型で多くの公営住宅に採用されていました。51C型の「C」は、A・B・Cの中でも一番小さい「C」型タイプが、戦後の住宅不足の中で定着した理由かもしれませんね。
申し少し詳しく記事を書いているのでこちらもどうぞっ♪
まとめ
こうやってまとめていると、この時代はこれらの建築物の中でたくさんの家族がいてたくさんの子供がいて外ではしゃいでいて、そしてたまには色んな大人におこられたりもして、にぎやかな昭和の風景が思い浮かびながら書いていました。今回は大きな建物(集合住宅)ばかりで、それらもほとんどが役目を終えたかのように解体になっていますが、それだけ戦後から70年と少しと言う年数が経った今、平和な生活が出来ているということなんでしょうね。